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ウルグアイ : 相対するクワッドのライダー二人
片や、ウルグアイ・ライダーの一人は、まるで苦労などしていないかのようにルンルンとコースを飛びまくっていた。セルジオ・ラ・フエンタ(Sergio Lafuente)、ダカール・ラリーが始まったばかりで、彼は思いっきり走り回り、楽しくてしょうがないといった風。一方のウルグアイ・ライダー、マウロ・アルメイダ(Mauro Almeida)はそうでないダカール・ラリーを代表しているようだ。苦難、苦難の連続、何一つツイていない。

「ゼッケン262のルキアノ・ガリアルディ(Luciano Gagliardi)を追い越すまでは、絶好調で走っていた。目の前に大きな3つの穴が見えた。2つはよけられたが、3つ目はどうしようもなかった。」クワッドから激しく投げ飛ばされたが、マウロは運よくなんとか再度走り出すことができた。左肩がズキンズキン痛む。Km170で、右後ろのタイヤがパンクした。交換できないまま、SSゴールについた。そのまま今日はステージが終わる。いや、あと少しで終わるところだった。リエゾンの最後のチェック・ポイントの1.5km手前、ビバークの隣でエンジンがストップしてしまった。同国人エミリアノ・スパタロ(Emiliano Spataro)に牽引してもらってステージを終えることができた。次のロード・ブックを読みながら、彼は医者の手当てを受ける。リタイアなんてとんでもない、ウルグアイでクワッドの完走パーティが待っているのだから。

– モト
161 – 300kmを片足で走ってきた

第2ステージ、日が暮れてあたりは真っ暗、オーランド・サルヴァトール(Orlando Salvatore)がゴールした。SSをスタートしてから10時間が過ぎていた。「リエゾンを走っている時にフェシュフェッシュの餌食になって、バーンとジャンプして飛んだ。体は何ともなかったが、ステップとリア・ブレーキのペダルが引きちぎれてしまった。そこから300km左足だけ、片足で走ってきた。デューンの中でリア・ブレーキが無いと、そうとう大変だと思っていたが、こんなにデューンのコースが長いと思わなかった。その上、バッテリーがいかれてしまって、転ぶ度にエンジンをかけるのにキックしなければならない。そして、キャメル・バックには既に3時間も前から水がない。幸いアルゼンチン人は優しい人ばかりで、飲み水は分けてくれ、いっしょうけんめい応援してくれた。僕のDakar2012がどうなるかまだわからないが、それが理由で、来年もまた来る。」

– カミヨン
526 – 3本足のカミヨン!

夕方、第2ステージのSSゴールのチェック・ポイントにカミヨンが到着した。思わず、全員が目をやった。メルセデスのカミヨン、ゼッケン526は、タイヤ3本で走ってきたのだ。
「ゴール手前3kmでタイヤがパンクしてしまった。ゴールしてから交換すれば良いや、このまま行けちゃうだろうと思って走ってきた。でも、ハタからみれば、あまり良いアイデアではなかったかもしれない。」とオランダ人パイロット、Johan Elfrinkは、むき出しになった右フロントのハブを見ながら笑った。
「確かにすごく目立つが、でもそれほど大したことじゃない。アシスタント・カーを待って、交換するよ。スペアパーツがないんだ。それで少し修理の時間がかかってしまうかもしれないが、ここで一晩過ごしたって別にかまわない。ビバークはそう遠くはないし・・・。明日、私達のカミヨンがレースを続けているのを間違いなく見られるはずだよ。」

セルジオ・ラ・フエンタ: ウルグアイ人初めてのSS優勝
セルジオ・ラ・フエンタ(+Sergio Lafuente)は直ぐに体得する性質だ。昨年はクワッドの総合順
位14位、最後尾後だった。充分な準備ができていなかったので、それより上に上がるのは無理だ
った。そして2012大会の最初のSSを優勝して、彼のマシーンのポテンシャルを確認した。と同時
に、彼の無名度も。クワッド部門では、パトロネッリ兄弟を知らない者はいないが、誰も彼の名前
を知らなかった。今回のSS優勝でようやくフエンタに注目が寄せられる。彼は1992年、1996年の
オリンピックで、重量挙げのウルグアイ代表だった。そこで競技の醍醐味を会得した。
「ともかくたくさんバイクのトレーニングした。私のウィーク・ポイントはナビゲーション。メン
ドーサに行くのにハルンペンに教えてもらいながら走った。彼は昨年2位で、たくさん得るところ
があった。SS優勝できたのは、私がトレーニングできるよう助けてくれたグスタヴォ兄弟の会社
のお陰で、彼らにお礼を言いたい。」

コマニャック、ゆっくり走っていたのに㎞16で…
ダカール・ラリーの最初のSSでは、毎回だれかが思わぬ悪いサプライズにつき当たったり、リタ
イアする様な大きなトラブルに見舞われたりする。それが彼に降りかかってきた。昨日、ヤニック
・コマニャック(Yannick Commagnac)は57kmという短いSSをゆっくり走っていた。km16、彼
の乗るBowler Wildcatのシリンダーのジョイントが外れた。それから悪夢が始まる。
「二人で直そうと一生懸命やったが、直らなかった。仕方がないのでうちのアシスタント・カミヨ
ンを待つことにした。それに牽引してもらったが、ゴールまでとんでもなく長かったよ。」
実際、ゴールに着いたのはオート部門トップのノヴィツキーから4時間17分後。しかし、それごと
きでレースを諦める二人ではない。「まだ、ビバークに着いたわけではないが、ビバークに行けば
パーツを交換できる。明日スタートできるよう祈るよ。そして、願わくばリマまで行きたい。」

EN – Magazine – Stage 2 (Santa Rosa de la Pampa – San Rafael) – 2012/01/02

菅原義正、エチエンヌ・スムレヴィッチ :共に30回

菅原義正、エチエンヌ・スムレヴィッチは共に、ダカール・ラリー60回分の想い出を持っている、
最多エントリー者
ダカール・ラリーではありとあらゆることが二人にふりかかってきた。しかし、菅原義正、エチエンヌ・スムレヴィッチ(Etienne Smulevici)の二人は似ているようで似ていない。二人ともダカール・ラリー2012に出場するのは連続30回目(中止になった2008大会にはどちらもエントリーしていた)。彼らは共に1983年からダカール・ラリーを始めたが、菅原は最初はモト部門でエントリー。3度モトで完走できないまま、オート部門に転向、さらにその後はカミヨン部門でエントリーする。彼はHINOのカミヨンで頭角を現し、11回カミヨン部門のトップ5入り、うち4度準優勝している。そして、全部で完走27回。
一方、パリに住むフランス人、スムレヴィッチは最初からオート部門だけ。20回目の完走の時、総合18位になって、それが彼のベスト成績だった。まだ疲れ知らずの64歳、彼はこの先まだスコアを伸ばすことができるかもしれない。シルクウェイラリーで総合14位(ゴール3日前は総合8位まで上がった)に終わることができたSpringboksに絶対的な信頼を寄せる。ダカール・ラリー仲間や訪れた国を綴った“7歳で、彼は砂漠を渡りたいと思った”(注)という本の、新しい章をまた書き添えることができるかもしれない。
*(注) “« A 7 ans, il voulait traverser le désert », STPI出版, www.etienne-smulevici.comで入手可。

ルイス・ベロウステギ : いちばんひどいカラーリングのバイク

アルゼンチン人ルイス・ベロウステギ(Louis Belaustegui)は昨年初めてダカール・ラリーに参加し、今年で2度目。昨年同様KTM150ccで、今年はなんとか完走したい。「ブエノス・アイレスでバイクを受け取りたかった。が、納品が遅れ、時間がなくなってしまった。だから、マルチカラーで、競技車の中で、いちばん見栄えがひどいバイクに違いない。要は、去年と同じようにちゃんと機能しているかどうかだ。去年は時間外到着でリタイアになってしまった。他の人を助けるのに頻繁にストップしていたのも良くなかった。今年は、もっと自分の為に走る。」

 

ペドレガ、クワッド・ライダーから変身

2006年クワッド部門で総合優勝したホアン・マヌエル・ゴンザレス・ペドレガ(Juan Manuel Gonzalez Pedrega)、今年はペドレガ・ラリー・レイド・チームのマネージャーとして、ダカール・ラリーのレジェンドを引き継ぐ仕事を果たす。チームはルイス・エンデルソン(Luis Henderson)、マウロ・アルメイダ( Mauro Almeida)、ロベルト・トネッティ(Roberto Tonetti)らの3台のクワッドを送り込む。サルディニヤとモロッコ・ラリーで経験を積んできた。「2012年大会は、3名の南米ライダーが、ワールドチャンピョン、そしてダカール・ラリーに出場する。」

 

マーク・マクミラン(Mark McMillin): 毎日が新しい経験

Baha1000の5回優勝者、マーク・マクミランはアメリカのクロス・カントリーの権威だが、ダカール・ラリーでは55歳のルーキー。車検場でも初めての事ばかり。「バハでは車検はテーブルひとつで、15分で終わってしまう。ここはまったく違う。驚いたよ。でも、すごく良くオーガナイズされている。たとえレースのスタートまであと少し時間があるにしても、既にダカール・ラリーは始まっている。早くスタートしたい。最初の2日間はどんなふうにレースが進められるのか、コースはどんな風なのか様子を見ようと思う。どちらにしても、プランは休息日までに車とドライバーを大事に扱うことだ。オープン・カテゴリーでは、スピードが早い者ではなく、メカニックのトラブルが無い者が勝つと思う。」

ダカール・ラリー総監督、エチエンヌ・ラヴィニュ : ポディウムが本当にランデブ―の場所

ドライバーやコ・ドライバーを一人一人紹介するスタート・ポディウムでのセレモニーは、南米に来てから新しい規模になった。毎年、ブエノス・アイレスのオベリスクの元や9 de Julio通りに、何十万人という人が集まり、ここで声援を浴びた競技者たちは鳥肌がたつほどの感動を覚えた。ものすごい人だかり、ものすごい声援、それは忘れられない思い出で、ダカール・ラリー史こんな歓迎を受けたことがない。このスタート・セレモニーはダカール・ラリーで最も大事な瞬間であり、大事な見どころの一つだ。

 

コースディレクター、ダヴィッド・キャステラ:車検はだらだらと長い感じ

車検会場に集まった全競技者を見ると、彼らの気持ちがとてもよくわかる。彼らはここ1年、いや人によっては数年もかけて準備してきた。彼らはすっかり準備が終わって、スタートするのを待つのみだ。ある意味、車検はだらだらと長ったらしい感がする。初出場の競技者にとっては、ラリーのスケールの大きさに圧倒され、本当に驚くことばかりだろう。内心、それを僕は楽しんでいるんだが、でも、自信を持つよう励ましてやっている。2日間すごい観衆の応援に酔いしれるところだが、そこで何よりも冷静になることだね。その後、何が何でもアドベンチャーに身を呈さなければならない。かれらがどんなレベルだとしても、最初の3,4ステージは足慣らしだと思えと、常にアドバイスしている。」

 

ダカール・ラリー総監督、エチエンヌ・ラヴィニュ : あとはアーティストを待つのみ

「南米で4度目のダカール・ラリー、本当に感慨深い。今年は、我々主催者も、ブエノス・アイレスの常連と別れて、ここマル・デル・プラタでのスタートという、新しいチャレンジを試みている。車検のオープニングの日は、毎回決定的瞬間という感じがする。世界中から集まってくる競技者を迎え入れるからだ。だから、それまでに絶対、すべて準備ができていなければならない。いろいろな準備を何週間、何カ月とかかってやってきて、我々は用意万端整った。今は、アーティスト達を待つのみ。もうひとつ私が感銘を受けたのは、アルゼンチンの観衆のダカール・ラリーによせる変わらぬ情熱だ。ここでも、すごい観衆の熱い熱い歓迎はとても嬉しい。

ティエリー・サビーヌの常軌を逸したアイディアがいよいよ実現、1978年12月26日、エッフェル塔の元に競技者が集まった。

アビジャン~ニースのラリーに参加している時にサハラ砂漠と出会い、その時の感動を一人でも多くの人と分かち合いたいと、パリ・ダカール・ラリーというアドベンチャーを思い立つ。

以降、「挑戦したい人は参加しよう、夢でいい人は家にいるがいい」という本質は、現在でも変わらない。

「これが最後のチャンスよ」と妻に言われた

彼は1m85cmの大きな図体で、ダカール・ラリーの雰囲気を体中で味わうかのように車検会場の中をふらふらと歩きまわり、ライダーたちと言葉を交わしている。しかし、ブラジル人ディマス・マットス(Dimas Mattos)47歳は、少し引け目を感じている。というのは、ラリーレイドを15年もやっていて、まだダカール・ラリーで完走していないのだ。2007年大会ではもうすぐ終わりというステージでリタイア、そして2009年も途中リタイア、しかも悪いことに2度ともケガをしてしまったのだ。その為、彼の奥さんはダカール・ラリーに出るのを禁じた。それでも、彼のラリーにかける情熱のほうが奥さんより勝る。

「2007年大会では、ゴールの前の日ケガをした。妻を説き伏せるのに1年かかった。そしてようやく2009年参加できた。そして2009年大会では、第2ステージで骨折してしまい、妻は「ダカール・ラリーに出るのはこれで終わりよ」って言った。彼女を説き伏せるのに、今度は2年かかった。なんとしても完走したいんだ。ようやく彼女を了解させた。彼女は、これが最後のダカール・ラリーだと、家で待っている。でも、バイクは俺の命なんだ・・・。」

 

賑わうダカール・ラリー村

マル・デル・プラタの車検場で12月29,30,31日と3日間にわたって、車検・人検(書類審査のこと)が行われる。スタート前の大事な瞬間だ。数カ月、いや人によっては数年間もかけて準備してきたダカール・ラリー出場が、この車検、あるいは書類の不備があると、パァになってしまうからだ。ここマル・デル・プラタでは、緊張した面持ちの競技者やクルーが他のチームの競技者を見たり、情報交換をしたりする。しかし、会場の中は、出場者とその関係者ばかりではない。たいへんな数の観衆やラリーおたく達が見に来ていて、会場の中は人でごった返している。

ポディウムでは、ひとりひとり競技者が紹介され、それが済むとパルク・フェルメの中の自分の競技車のもとに行く。29日11時から始まった車検は主に南米の競技者の番だ。30日、31日はカミヨンのジェラルド・デ・ローイやハンス・スティシー、オートのジニエリ・ド・ヴィリエ、元のシリル・デプレ、トップドライバー達が召集されている。チャンスがあれば、こうしたトップドライバー、トップライダーらと言葉を交わすこともできるかもしれない。さらに会場内のトータル、ヘンケル、フリック・ロット、エドックなどのスポンサーのブースでは、コンパニオンたちがプロモーショングッズを配っている。