Category : LEGEND

この年は、パリ→ダカール→パリという、途中で引き返す新しいコース。アイデアは魅力的だったが、コースは困難きまわりなかった。砂丘郡は柔らかくふかふかで、最初からトップグループのクルマが砂に埋もれて立ち往生した。トップにいた三菱パジェロのブリュノー・サビィと、ピエール・フォントネィ死力を尽くして、コースを走ったが、途中からステージがキャンセルになり、シトロエンZXのピエール・ラルチーグとユベール・オリオールが総合トップになった。三菱パジェロのサビィとフォントネィは、この措置に抗議して、レースから離脱してしまう。パリのゴールでは、ピエール・ラルチーグが初めての総合優勝、モト部門ではエディ・オリオリが3度目の総合優勝を果たした。

1992年、パリダカが初めてコースを変更した。大会は、いつものセネガルではなく、南アフリカのケープタウンがゴールだった。また、この大会で、初めてGPSが使われるようになった。ケープタウンまで22ステージ、10日間をかけ、総走行距離12,427kmを競うレースだった。ユベール・オリオールがナビゲーションのフィリップ・モネと共に、大会の総合優勝者。彼は、パリダカで初めてモト&オート部門のWカテゴリーの優勝者となった。一方、ステファン・ペテランセルはモトで6度総合優勝するが、この年2度目の優勝だった。

ユベール・オリオールとシリル・ヌヴーの二人のライダーがダカールまで壮絶なバトル。トンブクトゥからネマに向かうステージで二人のバトルが始まった。このステージでは勝敗がつかなかった。
最終日の前日、サン・ルイのSSゴールでヌヴーが優勝した。彼の通算5度目、そして最後のステージ優勝だった。

初めてパリダカはテネレ砂漠を通過する。未踏の砂の大海は、競技者にとっても観衆にとっても垂涎の的だった。が、憧れは、一部の競技者に悪夢と替わった。アガデスにゴールできた競技者は一握りしかいなかった。

1980年、パリダカで“砂漠のキツネ”とあだ名されていたマロー兄弟、4ltエンジンを自分達で改良したプロト車でエントリーした。パワフルなクルマを送りこんで優勝を狙うワークスチーム・フォルクスワーゲンIltisに対し、この二人のプライベーター車は最後まで果敢にトップをひいた。そして、ベルナールとクロードの二人の兄弟は、何度もステージ優勝をしながら、最後は総合3位、パリダカ史に残るスピリッツを示した。しかし、翌年もステージ優勝しながらリタイア。二人が優勝できたのは1982年、1度だけだった。

1979年秋、パリダカ第2回目の準備をしている時だった。ロード・ブックを作る為のティエリー・サビーヌはシトロエンCXで、3人の現地の遊牧民と踏査旅行をした。少し予定のコースを外れ、一行はアルジェリア、モーリタニア、ニジェール、オートボルタ(ブルキナファソ)を通過してセネガルまでの旅だった。

ティエリー・サビーヌの常軌を逸したアイディアがいよいよ実現、1978年12月26日、エッフェル塔の元に競技者が集まった。アビジャン~ニースのラリーに参加している時にサハラ砂漠と出会い、その時の感動を一人でも多くの人と分かち合いたいと、パリ・ダカール・ラリーというアドベンチャーを思い立つ。以降、「挑戦したい人は参加しよう、夢でいい人は家にいるがいい」という本質は、現在でも変わらない。

ティエリー・サビーヌの常軌を逸したアイディアがいよいよ実現、1978年12月26日、エッフェル塔の元に競技者が集まった。

アビジャン~ニースのラリーに参加している時にサハラ砂漠と出会い、その時の感動を一人でも多くの人と分かち合いたいと、パリ・ダカール・ラリーというアドベンチャーを思い立つ。

以降、「挑戦したい人は参加しよう、夢でいい人は家にいるがいい」という本質は、現在でも変わらない。