Category : Mag

初めてパリダカはテネレ砂漠を通過する。未踏の砂の大海は、競技者にとっても観衆にとっても垂涎の的だった。が、憧れは、一部の競技者に悪夢と替わった。アガデスにゴールできた競技者は一握りしかいなかった。

1980年、パリダカで“砂漠のキツネ”とあだ名されていたマロー兄弟、4ltエンジンを自分達で改良したプロト車でエントリーした。パワフルなクルマを送りこんで優勝を狙うワークスチーム・フォルクスワーゲンIltisに対し、この二人のプライベーター車は最後まで果敢にトップをひいた。そして、ベルナールとクロードの二人の兄弟は、何度もステージ優勝をしながら、最後は総合3位、パリダカ史に残るスピリッツを示した。しかし、翌年もステージ優勝しながらリタイア。二人が優勝できたのは1982年、1度だけだった。

1979年秋、パリダカ第2回目の準備をしている時だった。ロード・ブックを作る為のティエリー・サビーヌはシトロエンCXで、3人の現地の遊牧民と踏査旅行をした。少し予定のコースを外れ、一行はアルジェリア、モーリタニア、ニジェール、オートボルタ(ブルキナファソ)を通過してセネガルまでの旅だった。

ティエリー・サビーヌの常軌を逸したアイディアがいよいよ実現、1978年12月26日、エッフェル塔の元に競技者が集まった。アビジャン~ニースのラリーに参加している時にサハラ砂漠と出会い、その時の感動を一人でも多くの人と分かち合いたいと、パリ・ダカール・ラリーというアドベンチャーを思い立つ。以降、「挑戦したい人は参加しよう、夢でいい人は家にいるがいい」という本質は、現在でも変わらない。

本当に、戦いだった !
第7ステージのゴールに姿を現したアラン・デュクロ(Aprilia)、それは神話のようだった。バイクの“残骸”に乗って、真夜中ゴールに着いた。マリ系フランス人、デュクロはその日SS初め、ラジエター・ホースが壊れ、アシスタンス・クルーと連絡をとろうとした。フロントカウル、シート、メイン・タンクが欲しいと。しかし、ストックが既に無くなっていた!

「バイクはずたずたになってしまったが、かろうじてまだ動いた。シートは、現地人が自分が乗っていたモトクロスのものをはずして譲ってくれた。それをバイクにくくりつけてなんとか乗れるようにした。SSを再スタートしたのは17時ごろ、一晩中走った。バイクをだましだまし走った。しかし、夜中デューンの中をたった一人で走るって、本当に“戦い”だ。2,3回こっぴどく転んだりしたし、スタックは何回したかわからない。でも、絶対にリタイアしたくなった。何が何でもペルーに行きたいと思っていた。」

デューンの中で一泊
昨年の、エミリアノ・スパタロ(Emiliano Spataro)はBuggy MacRaeで初めてダカール・ラリーに出、37位で完走した。アルゼンチンの有名なサーキット・ドライバーの彼は、ダカール・ラリーで様々な初体験をした。コピアポのループステージの日、ゴール手前には大きなデューンがいくつも立ちはだかる。彼がビバークに到着したのは翌朝8時。
「トランスミッションのパーツが壊れ、我々だけで修理するのに3時間もかかった。再び走り出したのは16時30分。コースは既に荒れてとても走れたものではない。カミヨンが何台も立ち往生してほとんど勧めない。砂はカミヨンに掘り返されてとても柔らくなっていた。我々はゆるゆると進んだ。CP3を過ぎて、すでに真夜中、小さなデューンを抜け出たところで、ジャンプしてクルマのノーズからデューンに突き刺さってしまい、ヘッドライトが壊れてしまった。そこで、日が明けるのを待って、ここで一晩過ごそうということになった。ゴ-ルまでは後30km。朝6時に再びスタートして、そのステージを19時間かかって走り終えた。単なる車のスピードを競うだけではなく、状況との戦い、そういうダカール・ラリーってすごくいいねぇ。」

36 年やってきて初めて !
オート部門のオフィシャル協会の代表、ジョセフ・ベソリ(Josep Besoli)は、今でも、昨夜の話をすると鳥肌が立つ。競技者が、外部からのアシスタンスを受けたと白状し、リタイアを申し出てきたのだ。ブラジル人のカミヨンのパイロット、ギルエルム・スピネリ(Guilherme Spinelli)だ。「チームマネージャーから明朝、順番通りスタートするよう命じられた後、15分後、私のところに、不当なアシスタンスを受けた理由でリタイアを申し出る書類を持ってきた。SS上でオルタネイターが故障し、そこにいた現地人に修理してもらった。彼は目にいっぱい涙をためながら 「ダカール・ラリーをズルして完走することはできない。正直なことが何より優先で、私のモチベーションが第1だ。」というのだ。毎日私が立ち合っていることと全く逆だ。正直、来年、彼がまたダカール・ラリーに出てくれたら素晴らしい。それこそがダカール・ラリーのスピリッツだから。全部の競技者の良い例になる。」

オフィシャルが理解あるよう願っている…
Toyotaのゼッケン471がフィアンバラのステージを終わったのはかなり遅くなってからだった。ペルー人のガブリエル・ペシエラ(Gabriele Peschiera)とホルヘ・マッチュラー(Jorge Mutschler)にとって、タイムの問題ではない、彼らにとって重要なのは、明日再び競技を続けられるかどうかなのだ。「SSの初め、ともかくたくさんの観衆がいた。彼らが指さす通りに走るとウェイ・ポイントを外すことになってしまう。彼らのせいで、既に4つのウェイ・ポイントを外してしまった。だからそのリスクは冒すまいと思った。その後、コースがわからず、何度も何度もUターンを繰り返し、ゴールまでものすごく時間がかかってしまった。オフィシャルが寛容で、明日私達が再スタートできるよう認めてくれるといいんだが・・・。何といっても、ゴール手前でギアボックスを壊し、3時間もかかって修理したんだ。なんとかレースを続けたい。少なくともペルーに入りたい。」オフィシャルが彼らを失格にしないよう、彼らの意思は理解されたようだが・・・・。

シーッ, ガソリンと初めての苦役
トライアルで11回のタイトルをとっているスペイン人、ライア・サンス(Laia Sanz)。彼女は昨年初めてダカール・ラリーに出た。そして、総合45位と華々しいデビューで周りを驚かせた。今年のダカール・ラリーは昨年以上に充分準備してきたつもりだが、大会1週目で、酸いも甘いも体験した。
「今日の第4ステージは最初はすごく調子良かったのよ。昨日35番目でゴールしたから、良いスタートができた。SSを走っている時、石にぶつかってコントロールを失って転んでしまったの。右手を軽くケガしただけで済んだけれど、石だらけの路面だったので燃料タンクに穴があいてしまった。そして、ゴール手前30kmでガス欠でストップ。そこにマルク (コーマではない、マルク・ガッシュGuash)がやって来て、私のキャメル・バックのチューブで、彼のタンクから燃料を入れてくれた。それで、86番目にゴールできたのよ。」1時間タイム・ロスしたライダーは明るく語る。そこに追い打ちをかけるように、ウェイ・ポイント2つをはずして40分のペナルティ。「実際、ウェイ・ポイントの100mのところを通過しちゃったの。悔しいわ。だって、(明日のスタートが後ろなので)後ろの方を走るとどのワダチを追えば良いのかわからなくなってしまうし、オートにも追い越されるのよ。」ともあれ、次の週にかけてモチベーションは高い。

ダカール・ラリーで魂が浄化される
FJ CruiserでエントリーしているゼッケンNo.473、ホアン・ディボス(Juan Dibos)は、白髪交じりの、背が高いペルー人。今回初参加で、コ・ドライバーのグスタホ・メディナ(Gustavo Medina)と共に周到に準備をしてきた。「実際、最初の3つのステージは好調だった。ダカール・ラリーって人が言う程難しくないと思い始めていたほどだ。
そして今日第4ステージのゴールに、最後尾119番目に着いた。「少し順位を上げようと慾を出したら、何もかもが上手く行かなかった。2km先を走るモトのライダーを追い越そうとした時、穴に足をとられた。車はジャンプして、頭からルートの道端に突っ込んだ。泥にはまって、動けなくなってしまった。現地人が30人ほど集まって、そこから引っ張り出すのを手伝ってくれた。結局、3時間もかかって、引っ張り出したが、オイルがシリンダーの中に入って、クルマのエンジンがかからない。ディエゴ・ウェベール(Diego Weber)のお陰でなんとか再び走り始めることができたが、間もなく日が暮れ、しかもフェシュフェッシュのコーナー。アルゼンチン人のアンドレス・ジェルマノ(Andrès Germano)と一緒に、オフロードを、コ・ドライバー達が歩いてコースを選びながら進んだ。ビバークに着いたのは午前1h00。これが本当のダカール・ラリーだとわかったよ。厳しいと魂が浄化されるんだね。」

ディパルマ兄弟の不運
チレシトのビバークについたのは23時。ディパルマ(Di Palma)兄弟が運転するゼッケン410のクルマはズタズタだった。メカニックと共に、クルマのダメージを点検し、全員で修理にかかった。ディパルマ兄弟はいつも通り元気で、明るくその日の出来事を語ってくれた。
「けっこう快調に走っていたんだ。ノルベルト(Norberto Fontana)を助ける為にストップした、が何もやってやれなかった。そのあとステアリング・ギアが調子悪くなった。動けなくなり、40分程立ち往生しているところ、カミヨンが追い越していった。右、左と次々とカミヨンが追い越していき、そのうち、1台のカマズが後ろからぶつかってきた。一回半回転した。カミヨンもストップした。我々のせいなのかどうか、わからない。だって我々はタイヤがパンクしていたのだから・・・・。その時16時30分くらいだった。再度走り出したが、カミヨンの通過した後のピストやデューンはかなり荒れていてとても走るのがたいへん。スタックしてしまうと、カミヨンの荒らした跡でなかなか抜け出られないし、砂をかくスコップもほとんど役に立たない。でも、ゴール出来た。ウェイ・ポイントを全部通過したし、アドベンチャーは続くよ。」

ダカール・ラリーがようやくわかり始めた!
モトのライダー、イギリス人トビアス・ヤンガー(Tobias Younger)、第4ステージのSSゴールを、最後尾20人あまりのライダー達といっしょにゴールした。これまで何度転んだか数え切れない。今日はSSスタートしてわずかkm50のリオで転ぶのから始まった。ブーツの水を捨てただけで、再び走り出した。体中どぶねずみのようにびしょぬれだ。
「14時間も走ってきた。そのうちの5時間はゴール手前のフェシュフェッシュ30kmを走るのにかかった。僕のようなプロではないライダーにとっては、それは間違いなく特別料金だよ。ようやくダカール・ラリーがわかってきた。毎日、SSのゴール手前で、みながへとへとに疲れ切ったところで、ものすごく難しいコーナーがあるんだ。アマチュアがこのレースをするには、マゾでないとできない。

チレシト, モトのファンたち
剃り立ての顔で、ホセは家族全員と一緒にやって来た。48歳の農場の労働者ホセは、土地の自転車レースでは少し名が知られている。その彼が娘、ガブリエラとその息子ホセ・ジョナサンらと共にここにやって来たのは、ゼッケン410を見に来たのだ。
「マルコス・ディパルマはとても有名なんだ。彼はシボレーでアルゼンチンのチャンピョン・シップに出ている。彼がダカール・ラリーに出るっていうんで、メンドーサから見に来たんだ。彼といっしょに写真をとらせてもらえないかなぁ。」
しかし、大自然のど真ん中、チレシトのビバークでは巨大な塀がビバークの周りに立てられ、競技者らを傍で見ることもできない。ローザになぜライダーを見たいかというと、「彼らはヒーローだから」だそうだ。
ナセル・アルアティヤのHummerがリエゾンのチェック・ポイントに見えると「プリンス、プリンス」と叫んでいたリリアナもオートバイの大ファン。「Yamaha125に乗っているの。主人はGilera200.この大会は素晴らしいわ。チレシトからやってきたの。夜9時からはFoxで毎日ダカール・ラリー・スペシャルを見ているわ。」そこへ、ハビエル・ピゾリト(Honda)がやってきた。満場の大喝采だ。「地元の競技者を応援するのは当り前よ。」

ダカール・ラリーの厳しい掟 !
ゼッケン445のクルマがSSのゴールのチェック・ポイントについたのはほとんど真夜中0時。クルマの中は彼一人だけ。イグナシオ・コンクエラ(Ignacio Corcuera)は今日のステージを10時間以上かかって走ってきた。
「第2ステージでデューンを越えたところでパンクした。タイヤを交換している間に、カミヨンがコースをぐちゃぐちゃに掘り返してしまっていた。あまりにコースがひどくて走れなかった。特に夜間は。そこで寝て、明日ビバークに合流することにした。そのせいで、今朝、第3ステージは、またカミヨンの後のスタートになってしまった。今日の岩だらけのコースで、度々クルマを降りて、歩いて正しいコースを探さなければならなかった。あまりに走った跡のワダチがあちこちにあって、どのワダチを追えばよいのかわからなくなってしまっていたからだ。ソロ・ドライバーなので、クルマがダメージしないように走らなければならない。カミヨンの後ろを走るのに少し慣れてきたが、この先ずーっとこのままリマまで行くのだろうか。そうでないよう祈るよ・・・。」

足慣らしで、9.000キロ
サンファンのビバークまで、3日間のステージで走ったのはたった2,900km。ベネズエラ人パイロット、ナンシオ・コファロ(Nunzio Coffaro)にとってはそんな感じ。
なぜなら、彼はアシスタント・カミヨンをベネズエラの首都カラカスから運転してきたからだ。カミヨンをクレーンでフェリーに乗船させることができなくて、一人で16日間かけてブエノス・アイレスまで走ってきたのだ。カラカス→ボゴタ(コロンビアの首都)→キト(エクアドルの首都)→リマ(ペルーの首都)、その後、Jamaからコルディエール峠を通過し、チーム・クルーの待つブエノス・アイレスに12月25日に到着した。走行距離9,000km。さながら、アマチュア選手のラリーレイドだ。
「最初は小さなジープで家族とドライブして遊んでいたが、そのうち本格的にオフロードをやるようになって、メルボルンのアウトバック・チャレンジに4度参加した。エクストリーム・オフロード7日間のレースだ。そして、コロンビア・ラリーや、セルトンエス・ラリーにも参加した。今回のダカール・ラリーへの参加は、ベネズエラ政府と国営石油会社がスポンサーとなり、ダニエル(Daniel Meneses)と私で最初から運営してきた。我々のチーム無しでは、運営できなかっただろう。」